お題:雷
題名:雷雨注意報
作者:伊月めい


 昼から夕方の変わり目を狙ったかのように降り始めた雨は、すでに何度目か分からなくなった稲光と、やや遅れて遠くから聞こえてくる雷鳴を引き連れて、まだ少しの間は止む気配を見せそうもなかった。
 夏のにわか雨特有の気まぐれな強弱をつけて、雨音が私の頭の上のビニールで作られた軒先の屋根を叩いている。
 今日の営業を終えた帰り道、不意に降られた雨に、私は近くの建物の軒先に駆け込んだ。
 不況の波に流されたのか、「売り出し中」と書かれた張り紙がシャッターに貼り付けられた、以前は喫茶店だったらしき建物で、私の駆け込んだ軒先には、所々破れて穴が空いたビニールの屋根が残っていた。
 まぁ、雨宿りするくらいには問題はない。
 ゴロゴロゴロゴロ…
 また雷が鳴り響いた。
 傘を外回り先で忘れてきてしまったのは迂闊だった。雨が止んだら、もう一度戻って、それから会社に帰らなくては。
 雨の中、辺りを歩く人影もなく、取り残された様な場所で、じっと待つだけの時間は退屈すぎる。
 今日の仕事はもう上がりだったのに、とんだ無駄な時間を過ごす事になってしまった。
 まだ、雨が止む気配はない。

§§§

 パシャ、パシャ… パシャ、パシャ…
 水たまりを踏みつける音を軽快に立てながら、激しい雨の向こうから、大学生くらいの女の子が走ってきた。
 彼女が身につけていた白いシャツと細身のズボンは、見事にずぶ濡れで、この雨の中を随分長い間走って来たように見える。
 彼女は顔を左右に何度も振りながら、雨宿りの出来る場所を探しているようだった。
 そしてこの軒下を見つけると、走っていたスピードを落とした。
 しかし、先にそこにいた私の姿に気が付くと、ちょっと躊躇い、迷う素振りを見せた。
 確かに、見ず知らずの人と同じ場所で雨宿りするのは、気まずいモノがある。
 ピカッ!
 その瞬間、思いきり空が光った。
 ゴゴゴガガガーン…
 そして一時置いて、激しい音が鳴り響いた。
「きゃっ…」
 彼女は大きく肩をすくめると、慌てて軒下に飛び込んできた。
 雷鳴が遠く消えるまで待った後、彼女は短く切りそろえられた髪の毛を、雫を落とすように何度か掻き上げた。
 その様子を見ていた私と目があって、彼女は小さく会釈した。
 だがすぐに、視線を自分の持っていたクリアケースに向けた。
 本屋の帰りなのか、中に入っている本屋の紙袋が濡れてないかを確認して、彼女は小さく溜め息を吐く。
 そして、両手で腕と鞄を抱くようにしながら、空を見上げた。
 時折鳴る雷に、目を閉じるような仕草を見せる。
 その彼女の身体は小刻みに震えているようだった。
 肌に張り付いているシャツは、しっかりと水を吸っていて、薄く下着のラインが透けて見えてしまっている。
 幸いなことに、通行人の姿は見えないので良かったけど、このままでは風邪を引いてしまうのではないかと思った。
 どうしようかと少し迷ったけど、私は鞄からハンカチを取り出すと、彼女に声を掛けることにした。
「もしよければ…これ、使います?」
「…え?」
 髪が濡れて頬に張り付いた、幼い雰囲気の残る顔が私の方を振り返った。
 声を掛けられるとは思っていなかったのか、返事を返すまでに一瞬、間が空いた。
「雷雨の後は空気が寒くなるから、身体拭いた方がいいわよ」
 そう言って、私はハンカチを差し出した。
「えっと…いいんですか?」
 彼女は私の顔を見ながら尋ねる。
「ええ。あ、洗濯した後、まだ使ってないから綺麗なままよ」
「いえ、すいません。それじゃあ、お借りします」
 軽く頭を下げて、彼女はハンカチを受け取った。
 そして静かに顔や腕をハンカチで押さえ、水分を拭き取り始めた。
 だけど、やはりハンカチだけでは足りない感じだった。それでも、顔や手がべた付いたままよりはマシだと思う。

§§§

 彼女はハンカチで服を押さえながら、無言で空を見上げている。
 そして時折鳴る雷の音に、何度も身体をぎゅっと縮めた。
 もしかして…
 そう思ったとき、眩しいくらいの光が輝き、今までで一番大きな轟音が落ちた。
 ガガガガゴォォォォォォォォォォ…
「いやぁ!」
 その声に、彼女の方を改めて見た。
 彼女は両手で耳を塞ぐと、目を硬く閉じて座り込んでいた。
 ゴゴゴゴ…
 轟音の余韻が遠くへ消えて無くなるのを待って、私は再び彼女に声を掛けた。
「もしかして…、雷、苦手なの?」
 そう尋ねると、彼女は耳を手で押さえたまま、顔を上げて、大きく首を縦に振った。
「大丈夫よ。ただのにわか雨なんだから、すぐに止むわ」
 止んで貰わないと、私も会社に帰ることが出来ないし。
「でも、雷が落ちたりしたら危ないじゃないですか…。さっきだって、結構凄い音したし…」
 そう彼女は、もしここに布団があったのなら、頭から被ってうずくまってしまいそうなほど、怯えきった口調で言った。
「雷に打たれることなんて、滅多にないわよ。たしか年平均で2、30人くらいだから、確率としては…」
「そんな確率聞きたくないです…」
「600万〜700万人に一人くらいかな。あ、結構、微妙な確率かも」
 宝くじの当たる確率ってどれくらいだったかしら。
「そんなに直撃してるなんて…。やっぱりダメです…」
 なにやら余計に怖がらせてしまったようだ。
 なんとか彼女を元気づけて上げようと思ったんだけど。
 でも、今どきこんなに雷を怖がるなんて、結構、可愛いかも。
「ほら、向かいのビルの屋上を見てみて。ちゃんと避雷設備が取り付けてあるでしょ。それに、この場所から見上げると、だいたい有効な角度に入ってるし、ここに雷が直撃するなんてことは無いから、安心して」
 私は彼女の肩に手を置きながら、安心させるように説明して上げた。
「本当? 本当に…きゃ…大丈夫なんですねっ?」
 ゴロゴロゴロ…
 思い出したように聞こえる雷にビクビクしながら訊ねてくる。
 音からすると、もう先程の大きな音を響かせていた雷雲は遠ざかり始めているようだ。
「んー、まあ100%ではないけど、大丈夫よ。ただ、直撃はないけど、近くに落ちた雷が分岐して側撃と言って、辺りの建物に飛んで…」
 と、そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
 わざわざ怖がらせることを言う必要もないだろう。どうも職業柄、あれこれと余計な事まで言ってしまいそうになる。
「えっ、なんですか?」
 彼女は丁度、先程の音に耳を塞いでいたので、私の言葉は聞こえていなかったようだ。

§§§

 そうしてしばらく雑談をしている間に、やや雨が小降りになり始めた。
「よかった。雨が弱くなってきた」
 彼女はホッと胸をなで下ろした。心から安堵しているようで、私は…
「でもね、実は落雷って、小降りになってからの方が多いって話よ」
 思わずまた、余計なことを言ってしまった。
 そして案の定、それを聞いた彼女は泣きそうな目で私を見つめてきた。
「どうして、そういうこと言うんですかぁ…」
「ご、ごめんね。どうも仕事柄この手の話をすると、相手を不安がらせるような話し方になっちゃうのよ」
 それに加えて、あまりにこの彼女の怖がりようが可愛くて。
 別にそう言う趣味は無いんだけどなぁ。
「仕事? どんなお仕事なんですか?」
「私、企業向けの避雷製品を作ってる会社の営業なのよ。だから、雷の怖さを相手にじっくりジワジワと植え付けて、不安感をかき立てて、そしてうちの製品を使って貰おうという…」
「…嫌な仕事ですね」
「…はっきり言わないでよ。ま、そんなわけで、この手の話は営業知識としてよく話すから、つい悪ノリしちゃって」
 そう言うと彼女は、はぁ…と溜め息を吐きながら、うなだれた。
 だが、自分の胸元に光るペンダントが視界に入った後、慌てて顔を上げた。
「いけないっ! 身に付けてる貴金属外さなくちゃ! コレ持っててくださいっ」
 そして私にクリアケースを手渡すと、ペンダントを外そうと、あたふたと首の後ろに手を回し、顔を後ろに向けようとする。
「えーっと…」
 私は言うべきか言わざるべきか、迷いながら彼女の様子を見守った。
「ああっ、取れない。こんな事なら付けて来るんじゃなかったっ」
 しかしペンダントは取れない。諦めた彼女はイヤリングから先に外そうと、耳に手を掛けた。
「えーっと、頑張っているところ、可哀想なんだけど…」
 その焦りようがあまりに可哀想だったので、私は声を掛けた。
「こんな所で貴金属外しても、あんまり意味はないわよ」
「えっ?」
「だって、人間の身体の方が、そんな小さな貴金属よりも雷を引きつける作用があるからね。確率的には付けていても外しても、あまり意味はないって実験結果があるのよ」
 それを聞くと、彼女は力尽きたようにへたり込んでしまった。
「じゃあどうしたらいいんですかー」
 どんどん追いつめられているのか、彼女は私のスカートを掴みながら言う。
 シワになるから掴まないで欲しい…。
「そうねぇ…」
 実際、今いる場所なら、ゴルフ場でクラブを振り回すよりは、明らかに危険はないと思うんだけど。
「やっぱり、アレじゃないかな。こう言うときは」
「アレ?」
「くわばら、くわばら…ってさ」
 最後に頼りになるのは、運と天だけと言う事よ。
「あ、それなら知ってます。菅原道真の呪いがなん…」
 ゴゴガガガォォォォォーン…
 しばらく静かだったのに、突然雷鳴が鳴り渡った。
「道真の名前を出した途端に鳴ったわね」
 冗談半分にそう言って脅かしてみた。
「そんなぁ…。私、大学受験の時には、太宰府のお守り買ったんですよ。今だって家にちゃんと置いてあるのにっ」
 彼女はそう言うと、後はひたすら「くわばら…くわばら…」と必死になって唱え続けるのだった。

§§§

「ごめんなさいね。なんか脅かすようなことばかり言っちゃって」
「いいえ。もう雨も止んだから平気です」
 彼女の祈りが天に通じたのか、しばらくして雨は上がった。
 私達はやっと雨宿りを終えて、それぞれの帰路に着くことが出来そうだ。
「あ、ハンカチ…ちゃんと洗って返します」
 途中から、ずっと手の中で握りしめていたハンカチの事を思い出して、彼女は言った。
「いいわよ、安物だから上げるわ。邪魔なら捨ててくれてもいいし。それよりも、また雨が降らないうちに帰った方がいいわよ」
 この時期の天気は気まぐれだ。雨が上がったとは言え、まだ空は暗いままだし。
「それじゃあ、失礼します」
「ええ。また縁があったら会えるかもね」
 軒下に入ってきた時のように、小さく会釈をして彼女は私に背を向け、通りの方へ向かって歩いて行った。
 無駄な時間を過ごす事になるかと思っていたけど、そうでもなかったかな。
 小さくなっていく彼女の背中を見送りながら、たまには、こういう時間があっても面白いなと思った。
 そして、私は時計を一度見てから、忘れてきた傘を取りに外回り先に戻ろうと、軒下から足を踏み出した。
 ぽつ…
「あれ?」
 ぽつ…ぽつ…
「わっ…」
 慌てて踏み出した足を引っ込めた。
 ザァァァァァァァァァァァァ……
「また降ってきた…」
 そう呟いた瞬間。
 グゴゴゴゴゴロォォォォォン…
 ものすごい音。
「いやぁぁぁぁっ!」
 そして、悲鳴を上げながら軒下に飛び込んでくる女の子。
「うう…折角、服が乾きかけてたのに…」
 飛び込んでくるなり、彼女はそう言って、恨めしそうに再び肌に張り付いてしまった服を引っ張った。
「どうやらもうしばらく、ここで待つしかないようね」
 クスクスと笑いながら、私は彼女に声を掛けた。
「そうみたいです…」
 濡れた髪をハンカチで押さえながら、彼女は答えた。
「所で、実は軒下で雨宿りって、雷に対してはあまり安全じゃないって話、知ってる?」
 そして私は、さも真面目な顔をして、そんな話を始めるのだった。


(終わり)
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あとがき
突発的にお題SSです。今回は私だけで勝手にやってます。
最近読んだ漫画に、雷の日の話が有って、じゃあそれだと、安直にお題を決めてしまいました。
なんか、ワンパターンなモノを読んでいる間だけでも楽しんで貰えるように書く方法は難しいです。読み終わった後も残るような内容というのはもっと難しい…。

なお、作中に出てきた雷に関する情報は、インターネットの様々なサイトで情報を得させていただきました。ありがとうございます。
嘘は書いていないつもりですが、雷に関する詳しい情報などは、他の資料・文献などで確認するようにお願いします。

2000/10/30 伊月めい